« 権兵衛-20 4’ヒッチピンレール | Main | 権兵衛-21 ヒッチピンレールの位置 »

08. 05. 20

シンドラーのリフト

日常の中には 様々な音が溢れており
静寂の領域は 人工の騒音に汚染されている
都会に漆黒の闇が無いように 天然の静寂など皆無に近い


がしかし 人工の沈黙は存在する


それは 存在する人間の数の 乗数に比例する 重量の沈黙
それは 存在する性別の 対数に相当する 密度の沈黙
それは 配慮であり 暗黙の常識的 半強制的な沈黙


エレベーターの中で
ほとんどの人間の視線は 意味もなく 
それでいて 示し合わせたように 移動階の表示板に集中する


その光景は さりがなく観察すると 異様である
皆が78度の角度で 視線を上げている中
23度で うつむいている奴は チカンと誤解されても仕方ないほどである


そして 誰もが さりげなく 
それでいて どことなく不機嫌に 沈黙に徹する
その恣意的な沈黙が 容積以上の容量であっても 沈黙に徹する


・・・・・・・・・・・・・・・・・


この 人工の沈黙の箱の中で 
決して 絶対に 死んでも 出してはならない音がある


それは 視線23度から生じる 人工的でなく 生命力に満ちた音
それは 人間の尊厳を 脅かす 320Hzに満たない低音
それは 芳香を伴う ダブルリードの音


Img_9068


これは ある男の 冤罪なる実話である


エレベーターの扉が 閉まろうとしていた
ま 次の箱を待ってもいいか というテンポで近づく
すると 既に乗っていた 妙齢の美女が 開ボタンを押して待ってくれた


やや 小走りになりながら 「アザーす」などと
使いなれない言葉を使って ちょっと カッコをつけてみる
ちょっと不良っぽい方が モテると勘違いして ぶっきらぼうを装う


チラと 妙齢美女を 一瞬でスキャンする
うん タイプだ 
やった つかの間 この密室で 二人きりである! イヒヒ


しかし 彼女は 再び 開ボタンを慌てて押し
息を切らせらながら 飛び込んできた 
妙齢でも美女でもない生物を 迎え入れた


ちぇっ


こうした箱の中で 人間は 
まるで あてがわれたかのように
それぞれ 対角線上の 角に背を預け 互いの距離を確保する


間違っても 3人という人数で 
箱の中央に立つヤツはいない
そして 頭上の上昇するランプを ボンヤリと見つめる


ブブッ ブッ 


一応 男は 音の仕事をしている
なので その音源の位置は 容易に把握し
動揺しながらも フェミニストを装い 視線は78度を維持したままでいる


しかし ボタン操作板近くにいた 妙齢美女の視線が 下がった
彼女からは 背後のどちらが その音の発信源か 分からないのかもしれない
そして チラと7時の方向にいた男に 視線を走らせた


その 1/8秒にも満たない 視線で 全てを悟った
彼女は 後方にいる二人のうち 
ダブルリードの音を発するのは 男性だと決め付けているのだ


違う 違う オレじゃない


しかし この場で 「オレじゃない」なんて言えない
憤怒の視線を 妙齢でも美女でもない生物に 投げかけてみる
生物は 何食わぬ顔で 78度の視線を維持していやがる


そして 事態は聴覚だけの緊張を破り
かすかな 前日の夕食を彷彿とさせる芳香が 
嗅覚の領域に潜入してきた


違う 違う オレじゃない


すると 妙齢は すかさず 上昇中の次の階のボタンを押した
その速さたるや 遠い昔の インベーダーゲームでも制覇できるくらいの
早業であり その速度が 怒りのボルテージを示しているように思えた


そして 妙齢は 紳士服売場のある階で 
後ろを決して見ることなく エレベーターを 脱出していった
その背中は 氷点下のオーラを 発していた


男の不幸は そこで収束することはなかった
突如 音源の ヘッピリ女まで その階で降りて行きやがった
箱の中には 孤独な沈黙と ヘッピリ野郎の前日の夕食の発酵臭が充満している


そして 泣きっ面に蜂 どころか 
泣きっ面にマイク・タイソンな出来事が 次の階で起こる


若い夫婦と 小さな子供が エレベーターに乗ってきて
子供は 男の顔を 無邪気に見つめながら 人工の沈黙のルールを犯した
「ママ 臭い」


違う 違う オレじゃない


それでも 男は 人工の沈黙を遵守する
粉砕された矜持を かき集め 視線を78度に上げる
あと2階 あと2階で この患難から 解放されることを信じて


あと2階で この痛過ぎる沈黙から 解放されることを信じて


|

« 権兵衛-20 4’ヒッチピンレール | Main | 権兵衛-21 ヒッチピンレールの位置 »

Comments

The comments to this entry are closed.