真相の陰と陽 ①
前略
この季節になると いつも 先生のことを 思い出してます
最後に 病室に クラヴィコードの調律に行ったのは
いつだったのか・・・ 正確に思い出せないのも 悔しいです
僕は 相変わらず 自分に興味のあることだけ 夢中になって
バランスが悪いまま 生きております
先生に 何度か 叱責されたことがあるのですが 相変わらずです
最近 調律の仲間も 演奏家でも
先生に お会いしたことが無い という若い世代が 活躍してきて
そうした時代の移ろいが 頼もしくもあり 淋しくもあり
でも 自分も含めて この極東の小さな島国で
ささやかながら チェンバロという楽器に 携わっていられるのも
間違いなく 先生のおかげだと 信じて 感謝しています
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先生と お会いする 少し前
僕は 浜松でピアノを造ってました
そして 東京に戻ってきて 桐朋音大の調律事務室に 入社しました
でも 東京に戻った翌日に 僕が行かされたのは 桐朋ではなく
東松山にある 堀洋琴工房でした
1週間くらい 泊まりこみで 再び 木の匂いに包まれていました
最初は 何故 自分が チェンバロ工房に研修に行かされたのか
全く理解しておらず 堀栄蔵氏に さんざん罵倒されておりました
それが 僕とチェンバロの 出会いだったのです
どうやら 桐朋音大に 堀さんのチェンバロがあって
ピアノと共に 古楽器のメンテもしなければならないと
ようやく 状況を把握したのは 研修が終わる頃でした
そして 桐朋に行き始めると 更なるパニックが待っていました
まだ チェンバロの調律と ヴォイシング程度しか 分からない僕に
古楽器科の先生方が 次々と 異なった注文をしてきたのです
先生は月曜日にいらしていて 「もっと ツメを硬くするように」と おっしゃり
慌てて 隙間の時間をぬって ヴォイシングをしなおすと
水曜には 別の講師が 「もっと ツメをやわらかくしてください」と おっしゃり・・・
最初の頃は 毎週 その度に パニックになりながら 調整をして
ピアノの調律師なのに なんでチェンバロなんか やらなきゃいけないんだ!
などと キレながら すっかり チェンバロが大嫌いになってしまいました
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先生が 1974年に創設された オリゴ エト プラクティカの
「オリゴの春」に 招待していただいたのは
それから 1年くらいしてからのことだったと思います
その頃には 講師達のCDを 聞いて
ただの みすぼらしい 木の横笛だと思っていたのが
凄い表現力を持っていて 古楽器にも 真剣に向かい始めていた頃です
やがて 先生の自宅の楽器を 調整させていただく機会が与えられ
オリゴのコンサートや 先生の「衝撃と安息のスペース」など
拙い技術ながら たくさんの経験を させていただけました
1997年の4月に スコヴロネックを使った 先生のリサイタル
あれは 本当に 忘れられないコンサートでした
演奏に感動したのも その後の事故も 忘れることができません
当日の早朝 2m60くらいある 大きな楽器を搬出したのは ピアノ運送屋でした
僕は その様子を 見届けるという役を 仰せつかり
細いマンションの階段を 3階から 降ろしていくのを 見守っていました
そして コンサート終了後 感動に酔いしれて 先生のマンションに行き
楽器が 無事に 先生の部屋へ戻すのを見届ける予定でした
でも マンションの入り口には 運送屋のトラックが ひっそりと停まっていたのです
どうやら 朝 搬出する際に 階段の電気を外した 運送屋さんが
あやまって 電気をショートさせたらしく マンション中が停電になってしまい
帰ってきた楽器を 搬入させないよう マンションの住人が激昂していたのです
打ち上げを終えて 帰ってこられた先生は 驚愕されて・・・
先生と 先生の秘書と 僕の三人は 対策を打ち合わせましたよね
たしか 朝4時頃に タクシーで帰宅したことを覚えております
数日後 秘書の方から 事態の経過を伺いました
先生と運送屋が 一軒一軒 回って 謝罪されていたそうですね
なにより 楽器が無事に 戻って 僕も安堵したものです
でも 「調律師の不手際で 停電になってしまった」と 謝罪していた
ということを聞いて 愕然としたものです
あの後 あの階段で 住人に遭うのが どれほど辛かったものか・・・
長くなりました
明日は あの夏の思い出を 回想してみたいと思います
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